昔のイメージはもう古い!?急激に治安が良くなったあいりん地区
皆さんは大阪市西成区にある「あいりん地区」をご存知でしょうか。
「日雇い労働者の街」や「福祉の街」、「ドヤ街」など一度は名前を聞いた事がある方も多いと思いますが、この地域では高度経済成長期から2000年代にかけて度々暴動や事件などが多発していました。
しかし最近のあいりん地区は急激に変化していると言う事をご存知でしょうか。
今回はそんなあいりん地区についてご紹介していきたいと思います。
あいりん地区の歴史
まずはあいりん地区の歴史から説明していきます。
あいりん地区は、元々田畑が広がる農地でした。
そこには、かつて名護町(現在の大阪市浪速区)から強制的に移住させられた人たちを収容すべく、宿泊客が燃料代のみを払って住む「木賃宿」が作られました。
元々かつての名護町は「日本でも治安が悪い場所」と称されていたため、そこから来た人々たちが住んでいました。
その後、第二次世界大戦により今のあいりん地区のほとんどが消失しましたが、立地条件の良さから1950年代には他のドヤ街を吸収して巨大化しました。
当時のあいりん地区の住民は4割しか定職を持っておらず、残りの6割は日雇い労働者か無職だったそうです。
中間搾取された日雇い労働者の不満が溜まったためなどの諸説ありますが、1961年に後に「西成暴動」と呼ばれる暴動が起きてしまいます。
西成暴動はその後1度ではなく複数回行われたことにより、行政は就労をサポートする「西成保健所分室」や不就学児対策として「あいりん学園」を設置しました。
それを境に大規模な暴動に発展することはなかったものの、以前として強盗などの犯罪が後を絶たない状態が続き、バブル崩壊によって西成あいりん地区は新たな局面を迎える事になりました。
というのも、バブル崩壊までは日雇い労働者に対して就業支援などをすることが出来ました。
しかし、バブルが弾けてからはそうした就業支援が期待できず、行政には支援や対策のコストだけが重くのしかかっていました。
バブル崩壊後にあいりん地区は「日雇い労働者の街」から「福祉の街」と呼ばれるようになったのは、福祉が充実したからではなく「労働問題」よりも「生活の問題」が表立って現れるようになったからです。
西成特区構想と高齢化
そのような西成あいりん地区でしたが、2012年に橋下徹大阪市長が主導となり「西成特区構想」がスタートしました。西成区が抱える多くの問題を2013年頃から5年ほどかけて解決していこうという旨の「西成特区構想」は今も着々と進んでいます。
また、元々あった木賃宿や簡易宿泊所をゲストハウスに作り替えていたため、コロナ前は外国人観光客や県外からの観光客など多くの人が西成あいりん地区を訪れていました。
西成特区構想をスタートさせたことや観光客が大勢来たため、西成あいりん地区は以前よりも大幅に治安が良くなりました。
さらに西成あいりん地区に住んでいる日雇い労働者が高齢化してきたため、血気盛んな若い頃は犯罪や暴動が起こっていたものの、最近では高齢化による理由なのからか犯罪や暴動を起こす人も数少なくなってきているのが現状です。
世間との評価やイメージと裏腹に、今の西成あいりん地区は多くの人々が訪れる観光スポットの一つとして人気のエリアになっています。
まとめ
いかがだったでしょうか。大阪に住われている方や大阪をよく知る方でも未だにイメージがあまり良くないエリア。
しかし、実際に訪れてみると県外の人にも有名なホルモン屋さんがあったり、どこか昭和の香りを残すような懐かしいお店があったりと、世間のイメージとは裏腹に普通に人が訪れる事ができるようになっています。
今年の4月22日には「OMO7大阪 by 星野リゾート」がオープンされる事でも話題になり、さらにここから開発が進む事で多くの人が訪れる観光スポットになりそうですね。
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